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出産祝いを贈ったのに、内祝いもお礼もない

「友人が出産したので、出産祝いを贈ったのですが、それに対する内祝いがないのは非常識だと思うんです」

という方がいらっしゃいました。また、「弟夫婦に出産祝いを結構沢山包んだのに、内祝いが全くない」という方も。

内祝いがないのは非常識じゃないか・・・と。

確かにそうだと思います。贈答のルールなどを見ても、出産祝いをいただいたら、内祝いを1か月後を目安にお返しの品を赤ちゃんの名前で贈るのが一般的・・・といったような内容が書かれています。

ところが、そういった世間一般では常識だと考えれらているようなことでも、それがわからない人、できない人も中にはいます。そういった人は、多くの方から「非常識」というレッテルを貼られることになるかもしれません。

でも大事なことは相手を糾弾することではなくて、自分と違う考え方や「常識」を持った人に自分がイライラしないことではないでしょうか?

何故なら、そういう人はいなくならないし、そんな自分とは考え方の違う人に一々イライラしていたのでは自分が楽しめません。限りのある人生でそんなことにイライラして時間を使ってしまうのは、私は勿体ないと思うのです。

人生とはトレーニングジムのようなもの

人生の目的や生まれてきた意味・・・というものをふと考えることがあります。そんな時、考えることの1つが人生は自分を成長させるためにあるのかな?ということです。

人は自分を成長させることに喜びを感じる生き物です。何かに上達した時、嬉しくなります。

ではどんな時に人は成長するかというと、何かを乗り越えた時なんだと思うんです。すべてうまくいっているような時は人はあまり成長することはなくて、目の前に問題が立ちふさがった時であったり、困難がやってきて、それを乗り越えた時に人は大きく成長するようです。

そういう意味では、例えば、自分を苛立たせる人であったり、自分とは全く違う常識を持った人がこの世の中にいる理由は、自分にとっては、自分を成長させてくれるため・・・なのかなと私は思う時があります。

自分とは違う人、自分を苦しめる人に出会った時に、何故自分はこの人にイライラしてしまうのだろうか?と考えることが1つの学びになるかもしれません

人が苛立つ時というのは、必ず、その裏に思い込みがある時です。例えば、今回の場合なら、「内祝いは必ず贈るべきだ」という思いこみがそこにはあります。その自分の基準や思い込みから外れた人がいた時に人はイライラするようです。

でもイライラしない人もいます。それはどんな人かというと、そういう思い込みを持っていない人です。

「内祝い」がなくてイライラしない人は、「内祝いは必ず贈るべきだ」という思い込みを持っていない人です。だから、イライラしないで済みます。そういう人はどんな風に思っているかというと・・・

・内祝いは贈った方がいいけど、贈らない人も中にはいる

・・・というような考え方をしている人ではないでしょうか?つまり、考え方に柔軟性があるのだと思うんです。思い込みには柔軟性がありません。必ずどちらかに考えが傾き、融通が利きません。

ですが、この思い込みを捨ててしまって、この場合は、「内祝いは贈った方がよいとは思うけど、それができない人もいるし、そう思っていない人もいる」という風に、考え方に柔軟性を持たせると、内祝いを贈らない人に対してもイライラしないで済むのではないでしょうか?

「常識」というのは危険な言葉です。

それが当たり前だと思ってしまうと、それは思い込みとなって、自分を傷つけてしまうことがあります。そういう風に柔軟性のない考え方、つまり、思い込みを1つづつ捨ててゆくと、自分もどんどん楽になってゆくようです。

思い込みを捨てるのには時間がかかります。でも、捨てるほどに楽になる。それが実感できると、思い込みを捨てるのが上手になってゆくような気がしています。