親が嫌い、親戚が嫌い・・・という悩みから自分を解放する
親が嫌いだ、親がむかつく・・・悩んだことがない方には理解されないかもしれませんが、親のことがむかつくことってあると思うんですね。
親だけじゃない、おばあちゃんがむかつく、おじいちゃんが嫌い、親戚なのに、血がつながっているのに嫌いになることってあります。
そうなってしまう理由は様々です。しかし、親なのに、親のくせに・・・そういう風な考え方をしていることが原因になっていることが多いような気がします。
私自身もそうでしたし、そのことで随分悩みました。なんであの時、こうしてくれなかったのだろうか?何故人の気持ちを分かってくれないのだろうか?と。
相手をコントロールしようとしない
割り切ること。それはこの悩みから解放されるためにはとても重要なことです。自分の親だと思うから、または自分の親戚だと思うから、ついつい言い過ぎてしまったり、相手に多くを求めてしまったり、または相手を自分の思うように変えようとしてしまったりする。
その気持ちの裏には、自分の親なのだから、自分のおばあちゃんなんだから、こうあって欲しい・・・という考えがあるのかもしれません。
私はそういう気持ちがあったのだと思っています。
でもそれは言い換えると、自分の思う通りに相手を変えたいと思っているのと同じこと。やっていることは他人をコントロールしようとしていることと変わっていなかったわけです。
親も1人の人間でしかない
自分の親といっても完璧でも何でもありません。1人の人間でしかない。親なんだから・・・と思うと、何でこんなこともできないのか?とかなんで子供の言うことをわかってくれないのか?と悩んでしまいます。
でも親だって、1人の人間。欠点だってありますし、苦手なこともある。
ようするに自分と同じなんですね。完璧どころか欠点だらけかも知れない。でもそれは人間なら当たり前のことなのかもしれません。
そうやって親だって1人の人間なんだと思うことで、イライラも少しおさまってゆくと思います。
他人だと思う
親や親戚のことで悩むのは「親だから」「親戚だから」という前提で相手を見ているからなのだと思います。
だったらそれを外してみる。
思い切って他人のおじさん、他人のおばさん、他人のおばあちゃん・・・という風に考えてみたらどうでしょう。
すると、自分の行っていることを理解してくれない母親は、あまり他人の話を聞かない隣のおばさんになります。
その隣のおばさんが何かしてくれたら・・・他人から何かをしてもらうのですから、ありがたいことだ・・・と感謝さえできるでしょう。
「親だから」というフィルターを通して見ていた頃は、やってくれることは「当たり前」やってくれないことは「何で?」と思ったかもしれません。
でも他人だと思えば、やってくれないのは当たり前だし、やってくれたりしたら感謝に変わります。
血がつながっていると、時々見えなくなることもあるし、甘えてしまうこともあります。でも本当は血はつながっているけど、「他人」なんですね。相手も1人の人間ですし、その人にはその人の人生がある。親の人生と子供の人生は全く違います。
そういう風に割り切って考える。いい意味で諦めることですね。そうすると、親や親戚のことで悩むこともなくなります。