怒りっぽい自分を変えてしまう方法
以前にも怒りのコントロールについて書きました。これは私自身ずっと悩み続けてきたことなのですが、ちょっとしたことで怒ってしまう自分が嫌になったりすることはありませんか?
その場でイライラしたり時には攻撃的になったりする。しかし、社会人ですから相手につかみかかるわけにもいきませんね。そんなことをすれば、自分が警察に行かなかなければなりません。
それに、相手に対して攻撃的になったり、何かを言ったり、怒ったりした時点でもう自分も相手と同じレベル。自分が正しいなんて言えない立場になってしまいます。
私の悩み
世の中って本当に色々な人がいます。時には信じられないような行動や言動をする人もいますね。非常識な人、不真面目な人、こちらを馬鹿にした態度をとる人、他人に迷惑をかけて平気な顔をしている人、そもそも他人に迷惑をかけていることすらわからない人・・・などなど。
でもそういう人に一々腹を立ててたのでは自分が疲れますし、イライラしたりする時間が長くなると限られた時間を無駄にすることになります。楽しい時間もイライラが奪ってゆくのです。
私もそういう無駄な時間を使うことがよくありました。極端なことを言えば、迷惑をかけているような人を反省させてやろうとか、仕返しではないですが、わからせてやろうとか・・・それを頭の中で繰り返し考えていたりする。しかも、気づくとそうなっている。もう無意識なんですね。少なくとも自分の中では。
そんな自分が情けなかったです。
精神世界の本を読みあさる
そんなすぐにイライラしてしまう自分、怒りっぽい自分を変えたくて、本を読みあさっていました。精神世界の本、癒しの本とかストレスを解消する方法が書かれた本、リラックスする方法・・・とにかく何でも読みました。
確かにもともと短気でむかつく人がいたりするとすぐに怒っていたりしましたが、できれば何があってもスルーできる心の広い人間になりたいと本当は思っていました。
だから、そういう本を読んで、いわば人格者になりたいと願っていたわけです。
そうやって色々な本から様々な知識を吸収していきました。そして、少しづつ自分が変わってきたと自覚できるまでになったのです。
しかし、多くのことは変えられるのに、怒りという感情だけはなかなかコントロールできませんでした。
怒りの原因を知る
人がイライラしたり、他人に対して攻撃的になったり、つまり怒りの感情を持つ原因については様々な考え方があります。
自分を守るため・・・つまり自己防衛のためという専門家もいます。それも確かにあると思います。怒りの感情を持つことで戦闘態勢に入るというか、自分を守ろうとしているわけです。
私が思うに怒りの原因というのは、自分が正しいという正義感のようなものが関係しているように思います。
これについて武田邦彦氏は面白いことを言っています。
「人は、なぜカッとなるのだろうか?
他人に対してカッとなると言うことは、直接的に暴力をふるわれる時を別にすると、「あいつはおかしい!」と思う、つまり「自分が正しい」と錯覚するときだ。
これが何で「錯覚」かというと、相手と自分の考えが違うときに、「あいつは間違っている」ということは、相手から見ると「自分が間違っている」ということと同じだ。
つまり自分で自分の正しさを勝手に決めて、相手に怒っているだけだ。相手には相手の言い分がある。」
出典:怒りっぽい人へ 武田邦彦 ホームページ
自分が正しくて相手が間違っていると思った時に人は怒りの感情を持つ・・・これは実はほかの多くの専門家も指摘していることですが、これを知らずにいるといつまで経っても怒りをコントロールするどころか、怒りに自分を支配されてしまうことになります。
正義感を手放す
自分が正しくて相手が間違っているという時に感じる正義感。正義感ってすごくこう良いもののように子供のころは教えられてきた記憶があります。
でもそれがまさか怒りの原因になっているとは気づかないものです。
怒りっぽい自分を変えるにはまずこの正義感を手放す必要がありそうです。
人がより良い人間になろう、人としての修業をしよう、心を鍛えよう、人格者になろう・・・と思って勉強をするとします。
すると多くのことがわかってきます。でもその知識が増えても、すぐに人格者にはなれません。勿論私も人格者とは程遠いのですが・・。
人格者になるまえにある落とし穴がまっているようです。それは自分が正しいことをしているという意識を持ち、それを他人にも当てはめようとしてしまうことです。
人格者になろうと思った時、多くの人にやさしくできたり、思いやりを持って接したりという風に人間として正しいことは何か?ということ考えてしまいがちです。
そうやって自分に対して、これをしてはダメだ、これもいけない・・・と禁止事項をたくさん作ってゆきます。例えば、この場所では人様に迷惑をかけないために大声で話してはいけない・・・とか。
そうやって自分に課していることを、人は無意識のうちに他人にまで当てはめてしまうようです。
より良い人間になりたい、人格者になりたいと願った人は必ずといっていいほど、すんなりなれることはなくて、その前にこういった罠にはまるようです。
罠とは、自分がやっていることを正しいことだと思い、それを他人に押し付けてしまうこと。それをやった途端に怒りの感情が湧きあがります。それはある意味正義感からくるものですが、怒りの感情を持ちたくないなら、正義感は手放してしまった方がよいようです。
他人は関係ない、自分がどうなりたいか
人格者になりたい、より良い人間になりたい、心の修業をしたいと思うことは素晴らしいことだと思いますし、私たちがここにいる理由というのもある意味、そういうことだと思うのです。
でもその人格者になる前には必ず落とし穴が待っていること、そこから抜け出すためには正義感を手放すことが大切なようです。
自分が正しいんだ・・・という思いを手放せば、もっと気楽に生きてゆけます。何があってもスルーしてゆけます。
何が正しいか・・・それは人によって変わってくることに気づくこと、そして、自分の正義を振りかざさないこと、自分は自分の道をただ真っ直ぐに進んでゆくこと・・・それことが大切なのだと思います。
だから、他人は関係ない。
自分がどうなりたいか・・・・それが問題です。
怒りは他人を変えようとすることから生まれます。そうではなくて自分がどうなりたいかを考える。他人は関係ありません。少なくとも私はそうやって考えてたいと思っています。
なりたい人をイメージする
最後にちょっとしたヒントです。
怒りっぽい自分を変えたい人は、そういう自分が嫌なのだと思います。それなら、例えばこんな人になりたいなぁとか、この人ならあの場面でどうしただろう?と考えてみるといいと思います。
例えば、自分が怒ってしまった時・・・・その時に自分が尊敬する人だったり、あこがれる人だったらどう対処しただろうか・・・と。
あの人だったら、一々気にかけたりしないで、スルーしただろうな・・・とか、思うかもしれません。
すると怒りは消えると思います。
客観的に物事を見れたからです。
そうやって次回から実践してみるといいと思います。自分が怒ってしまうようなシチュエーションでその人のように振る舞ってみるのです。それを習慣にしてみるとそれがいつしか自分になっていたりします。
でもその時も正義感を手放すことは忘れない方が良いですね。