千代の富士が語った名言と相撲愛
ウルフ、小さな大横綱と呼ばれ圧倒的な強さとカッコよさを兼ね備えた力士、千代の富士が残した名言を今回はみてゆきたいと思います。
「私が第58代横綱に昇進した時、師匠だった当時の九重親方(元横綱、北の富士)の最初の言葉は、「おい、千代の富士。やめるときはスパッといこうな」だった。」(出典は最後に記載。以下、同じ)
この言葉を聞いた時は「なんてことをいう親方なんだ」と耳を疑ったそうですが、この言葉があったからこそ、その後の自分の横綱としての日々があったと語っています。
また、横綱は大変な地位なのだから、根性をいれろよと、そういう思いが込められていたと思ったそうです。
「礼に始まり、礼に終わる。勝った喜びより、敗者を敬うことを重んじる。それが相撲道だ。」
勝った後のだめ押しやガッツポールなどは相撲道に対する意識の低下だと考えていたそうです。
「横綱の晩年は常に断崖絶壁に背を向けて立たされている状況で、いま何をしなければいけないかを考えていた。」
その結果が31回という優勝につながったそうです。
「横綱として休むことはファンを裏切ることになるかもしれない。しかし、本当の裏切りは出場しても横綱らしさを見せられないことだ。」
横綱として恥ずかしい相撲は見せられないという思いが数々のけがを克服することや、優勝回数、通算勝ち数、連勝記録につながったそうです。
「相撲は興奮しすぎたら、ぜったいに勝てない競技と言える。」
平常心を保って、相手が何をしてこようとあわてずに対処するということが大切なのだそうです。
「私は稽古場では、より厳しい状況を想定して稽古するようにしていた。」
稽古で、この一番に「負けたら引退だ」と自分にプレッシャーをかけることもあったとか。
「左肩脱臼が千代の富士を変えた」
それまでの力に頼る強引な相撲から一変して、力を有効に使う相撲を考えるようになったそうです。左肩脱臼というのはまた、それだけではなく、「人生観まで変えたけがの功名」だったそうです。
「待っていたかいがあった」
貴花田との対戦について。その頃は体力の衰えを感じ、引退は時間の問題とご本人(千代の富士)は思っていたそうです。
貴花田との一番ができなかったら「さぞや悔いが残ったことだろう」と語っています。
「一日やそこらで苦手を克服できるものではない」
苦手を克服するには根気が必要で、それでも「少しづつ変わってゆく自分に気が付けばうれしくなり、やる気もわいてくる」、「毎日の我慢と積み重ねがよい方向に向かわせてくれる」そうです。
「北勝海がどんどん出世して横綱になったのも、私が30代で頑張れた要因の一つだった。」
8歳年下の弟弟子、北勝海との稽古は壮絶なものだったようです。
「こんな若い者に負けるわけにはいかない」と思うことで自分の「土俵生命が伸びた」と感じているそうで、「北勝海にはいくら感謝してもしきれない」そうです。
「貴花田との一番に敗れ、「ああこれで」と感じた」
35歳での引退は「潔い引退というよりも、自分ではぎりぎりのところだった」そうです。
「千代の富士は親方が独断で決めていた。まったく予告もなく、番付を見たら、「大秋元」から「千代の富士」になっていた」
千代の富士という四股名は千代の山の「千代」と北の富士の「富士」からとったものだったそうです。
二人の横綱からとった四股名は聞いた途端に気に入って、「これは頑張らなきゃいかん」と思ったそうです。
「もう二度とやりたくない。それが正直な感想だった。」
弟弟子、北勝海との史上初の兄弟弟子同士の優勝決定戦について。この対戦では千代の富士が上手投げで勝っていますが、「後味はよくなかった」そうです。
「相撲界へ
相撲界も、若い力士が無我夢中になって相撲に取り組む環境をもっと整備する必要がある。
「あの世界にはったらいいんだぞ」と思わせるような相撲界にするにはどうすればいいか。魅力あるプロスポーツにするには何をすればいいか。常にわれわれはそのことを念頭に置いて、取り組んでいかなければならない。」
出典:「綱の力」 九重貢 (ベースボールマガジン社)
千代の富士
本名、秋元貢。1955年6月1日生まれ。2016年7月31日に61歳という若さで膵臓癌のため亡くなる。
第58代横綱。通算勝星1045勝。通算幕内優勝31回。1989年には国民栄誉賞を受賞。